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項羽は東へ引き上げ

項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めろと進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。

劉邦は同時に韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。

追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡する事を潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦はいまだ抵抗していた魯を下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。

紀元前202年、劉邦は群臣の薦めを受けてついに皇帝に即位した。

論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資が無ければとっくの昔に敗れていた事を知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じ、張良に3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って魏咎に付くなど挙兵時から邪魔をし続けながら最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を真っ先に什方侯にした。これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。

劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「わしが天下を取って、項羽が天下を失った理由を言ってみなさい」と言った。これに答えて高起と王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があったものには惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。

劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することではわしは張良に及ばない。民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることではわしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦いに勝つことではわしは韓信に及ばない。わしはこの三人の英傑を見事に使いこなした。しかし項羽は范増一人すら使いこなせかった。これがわしが天下を取った理由だ」と答え、その答えに群臣は敬服した。

粛清 [編集]
その年の7月、燕王臧荼が反乱を起こし、劉邦は自ら親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の三人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。

ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離昧の首を持参した韓信がやって来た所を虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。

翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。翌紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つために更に北へ軍を動かした。しかしこの戦いで劉邦は匈奴の作戦に引っかかり、包囲された。陳平の策で命からがら逃げ出して、匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしない事にした。

紀元前196年、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。この時劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺された事を聞かされるとこれを悲しんだ。

同年、彭越は捕らえられて蜀に流される所を呂雉の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。劉邦はこの時体調が良くなく太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で懐かしい沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。

大風起こりて雲飛揚す(大風起兮雲飛揚)
威海内に加わりて故郷に帰る(威加海内兮歸故?)
いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん(安得猛士兮守四方)
そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。

しかし英布戦で受けた矢傷が元で更に病状が悪化し、翌紀元前195年に呂雉に対して今後誰を丞相とするべきかを言い残して死去した。

この際、自らの死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言い、更に何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。果たしてこの遺言は、のちにすべて的中することになる。劉邦の人物眼の確かさが伺われる。

死後、太子が即位して恵帝となったが、実権は全て呂雉に握られ、呂氏の時代がやって来た。しかし呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、文帝が迎えられ、文景の治の繁栄がやってくる。

その他 [編集]

劉邦の影響 [編集]
史上初めての皇帝・始皇帝はこれ以降の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた劉邦は善例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき 」という理想を後世の人々の心に形作る事になる。例えば明の朱元璋は李善長より「高祖のごとくすれば、天下はあなたのものになる」と進言され、これを受け入れている。

特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させる点は、後世でも度々引き合いに出された。

劉邦に関する著述 [編集]
劉邦に関する典籍は、司馬遷の『史記』「高祖本紀」、班固の『漢書』「高帝紀」など。通俗本も多く、中国の古典小説『西漢演義伝』を元にした『通俗漢楚軍談』が江戸時代によく読まれた他、長与善郎の戯曲『項羽と劉邦』が昭和前期に読まれ、現代では司馬遼太郎による小説『項羽と劉邦』が有名である。最近では横山光輝による漫画『項羽と劉邦』、『史記』、本宮ひろ志の漫画『赤龍王』が一般にも読みやすくて人気がある。劉邦とその時代を扱った映像作品としては、『大漢風』、『漢劉邦(邦題 : 劉邦と項羽)』、『淮陰侯韓信(邦題 : 項羽と劉邦・背水の陣)』がある。

その后妃と子女 [編集]
皇后 呂雉(のちに光武帝により皇后位・諡号を剥奪される)
魯元公主
恵帝(劉盈)
妾 曹氏
劉肥(斉悼恵王)
妾 戚氏
劉如意(代王→趙隠王)
妾・皇太后薄氏(子の即位により皇太后となる。また光武帝により皇后位・諡号を追贈される)
劉恒(代王→文帝)
妾 趙氏
劉長(淮南厲王)
生母の氏名が不詳の子
劉恢(淮陽王→梁王→趙共王)
劉友(河間王→淮陽王→趙幽王)
劉建(燕霊王)

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2009年04月14日 08:29に投稿されたエントリーのページです。

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