ヤマト王権(やまとおうけん)とは、古墳時代に倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した王権・政権である。主に奈良盆地を本拠とした。かつては大和朝廷(やまとちょうてい)という呼称が用いられていた。
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1970年代より以前は大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれることが多かったが、「大和」という表記は奈良時代以降のものであるとともに、この政治勢力を説明するには「朝廷」という用語は適当でないとされ、1980年代以降はヤマト王権の呼称が一般的となっている。しかし、必ずしもこの呼称が定着したわけではなく大和政権、ヤマト政権、倭国政権、倭王権などの呼称で揺れが見られる。学習指導要領には大和朝廷の表記が見られるが、歴史教科書の表記は前述のように様々である。
成立期
弥生時代においても帥升や卑弥呼などが倭国王として中国の史料に記されているように、倭国と呼ばれる政治的な結合が存在していた。その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢力による同盟関係だったと推測されている。しかし、奈良盆地に日本列島における最大規模の政治拠点が構築されていたことが纏向遺跡の発掘により次第に解明されつつある。倭国王・卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地をめぐっては九州説と畿内説とが並立しており結論は出ていないが、纏向遺跡は邪馬台国の有力な候補地となっている。纏向遺跡が中国史書における邪馬台国であったかどうかは議論の余地がある。しかし、纏向遺跡に搬入された土器特徴から、考古学的にはおそくとも弥生時代末期までには、纏向遺跡の地を支配する勢力を中心に東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州までの各地の政治勢力がなんらかの形で参加したヤマト王権の原型ともいえる緩やかな政治連合が形成されていたことになる。また最近では特に弥生時代末期における特に出雲勢力の鉄の普及によりヤマト王権が勃興したことが考古学的に明らかにされている。
対して、古墳時代に入ると規格化された前方後円墳が奈良盆地に発生し、急速に九州から東北まで普及していることから各地の政治勢力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考えられている。前方後円墳には畿内から吉備(山陽)、筑紫(北九州)など各地の墓制(→弥生時代の墓制)が採り入れられているため、これらの地域勢力が連合し統一的な政治勢力となったことの反映だとされている。最初の前方後円墳は3世紀前葉?中葉に出現しているのでヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階(プレ・ヤマト王権)だったとする見解もある。
各地域の勢力が連合してヤマト王権となっていく過程はまだ解明されていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治勢力(邪馬台国)が各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と連合してヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。遅くとも3世紀中ばまでにヤマト・吉備・筑紫などの諸勢力が糾合し、初期ヤマト王権が形成されたと考えられている。
ヤマト王権の王統についても複数説が提出されている。卑弥呼?壱与の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期ごろにミマキイリヒコ(崇神天皇)が新たな王統を開始したとする説などがある。
展開期
前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内?瀬戸内海沿岸(吉備など)?北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。
この時期と前後して4世紀中葉(350年頃)からヤマト王権(倭国)は朝鮮半島との交易を開始した。当時の倭国には鉄鉱の産出がなく、朝鮮半島から鉄原料を輸入した。朝鮮半島の任那(加羅)は鉄の産地だった。輸入した鉄資源をもとに鍬・鋤などの農業用鉄製品が製造され、農業技術の革新・開墾の活発化などが起こり4世紀後葉から5世紀にかけて倭国の農業生産力は大きく向上した。これにより、経済力をつけたヤマト王権は鉄資源を求めて朝鮮半島へ経済的・軍事的に進出し始めた。ヤマト王権(倭国)は百済と連携して朝鮮半島南部への出兵を頻繁に展開し、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記述されている。また、朝鮮半島南部を中心にいくつもの倭独特の前方後円墳が発見されており、中国の史書からも倭への朝鮮半島南部の支配権を認める記述があることから朝鮮半島南部(任那)は大和王権が統治していた地と有力視されている。ヤマト王権と朝鮮半島諸国との交易が活発化した背景には、北方の高句麗から圧迫を受けつつあった百済が対抗のために近隣諸国(新羅・加羅諸国)と連携を強めていたことが挙げられる。この結果、ヤマト王権(倭国)と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化したのである。ヤマト王権が東北から南九州まで全国的に展開したことは、この朝鮮半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられている。
4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれていたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このことから王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説)、などが提出されている。日本書紀の記述などから少なくともオオササギ王(仁徳天皇)は難波に本拠を置き河内平野を開発したことが判っており、当時の河川改修痕跡(難波の堀江)や堤防痕跡(茨田堤)も残存している。
5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国王朝へ朝貢を始めた。修貢して倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられており、実際に中国史書には倭へ朝鮮半島南部の支配権を認める内容を記している。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭国)へ貢献した。渡来人(帰化人)は養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術や『論語』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマト(倭国)へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地の豪族たちを徐々に組織化していくとともに(部民制の形成)中央の豪族層を大臣・大連を頂点として系列化していった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とする政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする見方もある。
この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王(雄略天皇)である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤマト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。
転換期
そうしたワカタケル王の努力に関わらず5世紀後半から6世紀前半にかけて王統が弱体化し、数回断絶したとの説も有力である。中国王朝との通交も途絶した。5世紀後半の475年、高句麗の南下によって百済は南方へ移動したが、この事件は百済と友好関係にあったヤマト王権(倭国)にも経済的・政治的な影響を与えた。ヤマト王権は百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済基盤・政治基盤を築いていたが、半島における百済勢力の後退によりヤマト王権が保持していた半島南部の基盤が弱体化し、このことが鉄資源の輸入減少をもたらした。そのためヤマト(倭国)内の農業開発が停滞し、ヤマト王権とその傘下の豪族達の経済力・政治力が後退したと考えられており、6世紀前半までのヤマト王統の混乱はこの経済力・政治力の後退に起因するとされる。
また5世紀末から6世紀初めにかけて、それまで首長墓を造営してきた古墳群の多くが衰退し、新興の古墳群が出現していることから、ワカタケル大王の王権強化策は成功したが、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したとの説もある[1]。
そうした中で6世紀前期に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一した。オホド王の治世には北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱)がすぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなった。またオホド王の登場以降、東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がなされたとする見解がある。
確立期
その後ヤマト王権は対外指向が弱まり、内向性が強くなった。朝鮮半島から暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。また、王族や有力豪族の間で紛争が多数発生するようにもなった。こうした中で6世紀末、幾つかの紛争に勝利した推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らは強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など官僚制を柱とする王権の革新を積極的に進めた。これによりヤマト王権という政治形態は解消され、古代ヤマト国家が形成されていくこととなる。
王号
ヤマト王権の王は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという小中華主義意識が生まれていたことの表れだと評価されている。
ヤマトの範囲
元々ヤマトの範囲は奈良盆地東南部つまり天理市南部から桜井市北部の東辺の地であったと推測されている。そこには三輪山山麓部の纏向古墳群には最古級の前方後円墳である箸墓古墳があり、また天理市の南部に所在する初期ヤマト政権の大王の墓を含むと推測されている大和・柳本古墳群がある。
平安時代初期に編集された『和名抄』に、大和国城下郡に大和郷(於保夜末止)が記されている。その地は大和神社の付近と推測でき、もとはその周辺をヤマトといったのに始まるのではないかと考える人も多い。
その地域を根拠地として政権が成立したことから、その政治勢力をヤマト政権と呼ぶようになった。
なお、ヤマトは奈良盆地全体を指すこともあった。その後、ヤマト王権の支配権が及ぶ範囲をヤマトと呼ぶようになった。
異説・俗説
7世紀末まで日本列島を代表する政権は九州にありヤマト王権は一地方政権に過ぎなかったとする説もあるが、埼玉県稲荷山古墳と熊本県江田船山古墳から「ワカタケル大王」と推定される銘の鉄剣が出土していること、様々な考古学的遺物などから成立する余地はないと考えられている。(→九州王朝説)
また、ヤマト王権をめぐって主として愛好家により日本神話や記紀編年の自由な解釈に基づく「謎解き」に類する説が多く主張されているが、そのほぼ全ては史料批判を満たしていないものであり学問的価値に乏しい。